今回は、「縄文杉までのトレッキングを通じて、自然環境保全の重要性を再認識するとともに、環境問題に関する科学的知見を一層深める」ことを目的としての研修でしたので、トレッキングの途中、今回ガイドを務めていただいた日高順一さんからの様々なお話を注意しながら聞きました。日高さんは、以前、屋久島観光協会の事務局長を務められ、屋久島で山岳救助隊とボランティアガイドを50年以上経験され、これまでも本校の屋久島トレッキングでガイドをしていただいていた方です。

 屋久島では、樹齢1000年以上の杉を屋久杉と呼び、杉の寿命が長くても500年程度であることを考えると、屋久杉はかなりの長寿であることがわかります。なぜこれほどまでに長寿なのでしょうか。

 屋久島は地下深くでマグマが冷え固まった花崗岩が隆起して誕生し、島丸ごと一つの巨大な岩の塊になっているそうです。この花崗岩の上に堆積している土壌が極めて薄く非常に栄養が乏しい状態であること、そして、それを克服するために屋久杉の森のコケが大量の新鮮な水をためていること、さらには黒潮や急峻な山地による雲霧帯のため雨量が非常に多く多湿のために樹脂が多く腐りにくいことなどの条件が重なり、通常よりも成長が遅く、しかし枯れることなく長く生きていけるとのことです。また、腐りにくいことから、倒れた杉も長い年月を経てもなおその姿をとどめております(写真の倒木は、日高さんから、樹齢3000年ほどで、倒れてからも3000年ほど経っているのではないかとの説明を受けました)。

 屋久島はその豊富な森林資源により、秀吉の時代以前のかなり昔から暮らしのために杉を伐っており、江戸時代の薩摩藩のときには、米を年貢として納められない代わりに、杉の平木を年貢として納めていたようです。このように、比較的成長の良い杉は暮らしのために伐採されました。前編でも書きましたウィルソン株についても、杉が立派すぎて建材として伐採されたようです。ウィルソン株は、伐採されなければ、縄文杉と同じように、最大級の屋久杉の一つであったとも言われています。

 一方、伐採されずに残った屋久杉の一つが縄文杉です。縄文杉はなぜ伐られずに残ったのか。縄文杉は杉の価値としてはあまり良いものではなかったと推測されています。また、ウィルソン株があるところが標高1030mに対して、縄文杉の標高はさらに高い1300m、ウィルソン株から3kmほど山奥にあり、一説には縄文杉の存在自体知られていなかったとも言われています。実際、縄文杉が発見されたのは1966年で、その翌年に南日本新聞が1面を埋め尽くす特大の記事で巨大杉の発見を報じたと、朝日新聞DIGITALに記載されていました。

 環境省のHPを見ると、九州との高速船が就航した後、観光客が急増し、世界自然遺産に登録される後もその傾向が続いたと記述されていました。その観光客の増加に伴い、縄文杉までの登山客も増加し、そのため、縄文杉までの登山道の荒廃が進み、環境保全対策として、登山道やトイレなどの施設整備、携帯トイレの導入、マイカー規制の実施や登山バスの運行などを行ってきたそうです。山岳部に集中する利用の分散化も推進しており、島内の各集落に今も残る昔ながらの生活様式や伝統を体験するエコツアーの導入なども進められています。

 公益財団法人屋久島環境文化財団 HPに、屋久島の自然環境の保全を図るとともに、自然と人とが共生する個性的な地域づくりの試みとして「屋久島環境文化村構想」が進められていると書かれておりました。これは、屋久島の優れた自然とその自然の中で歴史的に作り上げられてきた自然と人とのかかわりを手掛かりとして、屋久島の自然の保護と暮らしの豊かさを合わせて実現していこうというもので、自然の保全活用のための基盤整備などの環境形成事業などを民間と行政が一体となって推進しているとのことです。

 最後に、日高さんから、行きに通り過ぎた「三代杉」について説明を受けました。一代目が約2000年で倒れ、この倒木から二代目が再生したが1000年後に伐採され、さらにその切り株に三代目が再生し、その樹齢が数100年。3千数百年の間、命がつながっていました。自然の力強さを感じずにはいられません。

 話はここまでにします。今回は6年次生の屋久島プロジェクトAでしたが、今年12月には今度は5年次生が屋久島プロジェクトBとして再び屋久島を訪れます。

 SSHに関わる研修もできるようになりました。ぜひ積極的に参加してほしいと思います。ただし、縄文杉までのトレッキングは体力勝負であることは間違いありません。

令和4年(2022年)9月20日
  校長  宮田 佳幸