『啓流』

本校の生徒会機関誌『啓流』は年1回、年度末の3月に発行されます。

現在の主な内容は

口絵(カラー写真)

巻頭言(学校長あいさつ)

生徒会執行部紹介(生徒会長あいさつ・執行部集合写真)

生徒会行事ふりかえり(モノクロ写真・作文)

クラスページ(集合写真・紹介文・担任あいさつ・フリーページ)

部活動ページ(集合写真・紹介文・大会結果)

となっています。

 このページでは歴代の『啓流』の表紙絵を掲載し、また時代背景・注目の記事などもあわせて紹介します。

 

 ※掲載にあたって、一部個人情報に関わる部分を訂正・削除しています。

 ※経年劣化・保存状態などにより読み取りづらい部分があります。


1号(創刊号) 昭和3634日発行

本校が「北海道札幌啓北商業高等学校」と改称したのが昭和30年。それから6年が経った昭和36年、満を持して発刊となった『啓流』創刊号です。昭和35年度(昭和354月~昭和363)は、池田勇人首相(当時)が「所得倍増計画」を発表した頃になります。

 

誌面から

啓商生の生活実態(p22-27) [900KB pdfファイル] 

 

 

 

  

 


2号 昭和3733日発行

2号が発行となった昭和36年度(昭和364月~昭和373)は、映画では『ウエスト・サイド物語』や『モスラ』が、音楽では坂本九「上を向いて歩こう」や植木等「スーダラ節」がヒットしました。

 

 

 

 

 

   

   

 


第3号 昭和38年2月28日発行

第3号は昭和37年度(昭和374月~昭和383)。この1年間の出来事としては、ジャニーズ事務所の創業が6月、ビートルズのレコードデビューが10月と、洋の東西を問わず、世間を賑わす娯楽の話題が矢継ぎ早に提供された1年でした。国産初のテレビ漫画『鉄腕アトム』の放送開始が昭和38年1月です。

 

 

 

 

 

  

  


第4号 昭和39年2月25日発行

昭和38年度(昭和38年4月~昭和39年3月)に発行された第4号です。実はこの当時の『啓流』には、外部企業・団体の広告が掲載されていました。この第4号には勝新太郎主演『座頭市千両首』(池広一夫監督・大映)の広告も目次の次のページに載せられています。また、ある時期まで3年生の名簿と住所・就職(進学)先も巻末に。個人情報保護という意識が今より希薄だった時代の名残ですね。

 

 

 

 

 

 


第5号 昭和40年3月11日発行

第5号は昭和39年度(昭和394月~昭和40年3)の発行です。この第5号からしばらく、『啓流』のサイズがA5からB5になります。東京オリンピックが開催された1964年。本誌には「TOKYOオリンピック観戦記」と題した見開きの企画ページがあります。

 

 

 

  

 

 


第6号 昭和41年3月1日発行

第6号が発行された昭和40年度(昭和40年4月~昭和41年3)に、本校の学校祭「啓北祭」は10回目を迎えました。現在の「啓北祭」では行われていないファイヤーストーム、フォークダンス、仮装行列の様子が写真で掲載されています。また、髪型(長髪の是非)をテーマにした生徒大会が一年間に二度も開かれたそうです。時代を感じます。

 

 

 

 

 


第7号 昭和42年3月1日発行

昭和41年度(昭和41年4月~昭和42年3月)発行の第7号。この頃は他校との交流も盛んだったのか、25~27ページに「他校紹介」と題して、横浜商業・札幌工業・札幌北・札幌光星・札幌第一の各高校の紹介文が掲載されています。当時の札幌北は全校生徒数約1,600名、札幌第一は約2,000名だったとあります。本校も3年生が1クラス53名×6クラスで、全校で900名余り、つまり今よりも200名以上の生徒が在籍していました。

 

 

 

 

    

 


第8号 昭和43年3月1日発行

第8号は昭和42年度(昭和42年4月~昭和43年3月)の発行です。音楽界ではGS(グループ・サウンズ)が大流行。ブリヂストンタイヤのCMソング「どこまでも行こう」(作曲:小林亜星)も1967年に初オンエアでした。本誌には生徒会執行委員会に対する論評が寄稿されています。その中には「新鮮味に欠ける生徒会」と題した辛口の文章も。学生運動の影響か、生徒会執行委員会ではない生徒も生徒会活動に躍起になっていたものと思われます。

 

 

 

 

 

 


第9号 昭和44年3月1日発行

昭和43年度(昭和43年4月~昭和44年3月)。昭和43年は7月に『週刊少年ジャンプ』が創刊、10月には川端康成が日本人初のノーベル文学賞を受賞という話題がありました。郵便番号制度が始まったのも昭和43年です。また、石原慎太郎や青島幸男、横山ノックといったタレント議員が参院選で全員当選しました。さて、この当時の修学旅行は何と八泊九日!北海道と本州の往来は青函連絡船を使っていたことが書かれています。

 

 

 

 

 

 

  


第10号 昭和45年3月1日発行

昭和44年度(昭和44年4月~昭和45年3月)は、札幌東商業高校との定期戦が初開催となりました。会場は中島スポーツセンター(現 中島体育センター)。本誌11ページには当時本校に存在した応援団の写真が掲載されています。

当時の学校長 江木協三氏の寄稿「商業教育雑感」も興味深い内容です。今から40年以上前に書かれたものとは言え、今の啓北生も心得るべきメッセージが込められています。